相続登記においてはとても重要な戸籍ですが、戸籍にどのような歴史があるのかについて今回はたどってみましょう。
現在私たちが入手しうる戸籍の最古のものは、「明治19年式」といわれるものです。
現在戸籍謄本は、閉鎖されてから150年間役所に保管されることになっています。閉鎖というのは、今後書き換えられたり追加されたりすることがなくなった戸籍のことをいいます。例えば、全員が死亡や除籍(転籍・婚姻等)によりその戸籍に存在しなくなった場合や法律によって改製されたような場合です。平成22年に法改正があり、保存期間は150年になりましたが、それ以前は80年でしたから、古い物であれば既に入手できないこともあります。
さて、戸籍の歴史についてですが、今から1300年以上前のお話からスタートします。
「庚午年籍(こうごねんじゃく)」という戸籍制度が日本最古と言われています。これは、大化の改新後の670年にできた全国的な戸籍制度ですが、当時の資料は現存しておらず確かなことはわかっていないようです。当時の時代背景としては、天皇を中心とした中央集権国家をつくろうとしていました。そこで、公地公民(すべての土地と国民は天皇のものという考え)を導入するために、全国の国民を把握する必要があったためにつくられたものであるとされています。
その後、690年に「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」という戸籍制度がつくられます。これは6年ごとに作成された、こちらも全国的な戸籍でした。家族構成や身分なども記載されていました。これにより、班田収授(国民に土地を貸して、その土地の収穫から年貢(税)を納めさせる)が実現していき財政が安定しました。
ただし、国民には「自分の土地でもないのに」という不満もあり、税金の支払いを免れる者もいました。そこで、奈良時代の中期に入ると、この不満をなくそうとしたのが「三世一身の法(3世代に限り土地を所有することができる)」というものが制定されました。
しかし、これも結局「3世代だけだしなぁ」ということで根本解決には至らず、その後「墾田永年私財法(自分で開墾した土地は自分の物にしていい)」を発布することになります。これにより、公地公民は崩壊していき、やがて全国的な戸籍はつくられなくなっていきます。
平安時代に入ると、主に租税を課すためだけに作られていた戸籍でしたが、納税義務を免れるために身分・年齢・性別を偽って登録する者がどんどん現れて、でたらめな戸籍だらけとなって戸籍制度は消滅していきました。
その後、豊臣秀吉の時代になって、「太閤検地(たいこうけんち)」が行われるようになりました。太閤検地とは、それまでは収穫量を自己申告して年貢(税)を納めさせていたことで少なく収める者がいたことの対策として、豊臣秀吉が全国の土地を調べ上げ「この土地からはこれぐらいの収穫が見込めるであろう」と定めて、それに応じた税金を課すというものです。そのために、土地の権利関係や広さ、農民の名前などを記載した帳簿で管理をしていたという歴史があります。これを戸籍制度に含めるかどうかは微妙なところですが。
江戸時代に入ると、「寺請制度(てらうけせいど)」ができます。現在でもお寺にはお檀家さんがいますが、当時の寺請制度では全員が必ずどこかのお寺に属さなくてはならないとしました。これはお寺からキリシタンでないことを証明してもらい、隠れキリシタンを排除するという目的がありました。各宗派にはそれぞれの本山(特別なお寺)があり、その本山が統轄するお寺が全国にあり、そこに国民が所属するため、現在の役所のような役目をしていたとされています。
さて、この寺請制度ができたことによって、それを管理する帳簿が必要になってきます。
1つは、「宗門人別改帳」です。これには、国民の家族構成・生年月日・職業・血縁関係・所属するお寺(菩提寺)が記載されていました。
もう1つが「過去帳」です。これはお寺ごとに保管されているもので、先祖の名前・名前(戒名)・命日・享年などが記載されています。
どちらも国民の情報を管理するものとして重要な役割を果たしていました。
なお、江戸時代にはもう1つ大名の家臣の名前や役職などを記載した武士名簿「分限帳」といったものもあったようです。
その後、長らく鎖国をしていた江戸幕府が終わり、明治維新とともに外国の文化や制度を取り入れた新たな近代国家・中央集権国家づくりを目指して動き出しました。
そして、新政府が全国単位で国民を管理するため、これまでの「宗門人別改帳」に代わって、明治5年に居住地を本籍地として世帯(戸)ごとに戸籍を新たに編成しました。これを「壬申戸籍(じんしんこせき)」と呼んでいます。壬申とは、この年の干支が壬申であったことから名づけられたそうです。この戸籍は6年ごとに見直しをして正確な情報を管理すると規定されていました。とはいえ、実際にはさまざまな不備も見られたようで現在の戸籍のような完全なものではありませんでした。
また、明治に入り士農工商のさらに下の被差別身分とされていた身分は「賤民廃止令」によって廃止されましたが、壬申戸籍では身分も記載されており、それらの被差別身分も一部の地域で記載されたまま残っていました。その後、昭和43年に被差別部落民を調査するためにこの壬申戸籍を使用するといった事件が起こったため、民事局長の通達により壬申戸籍は閲覧禁止文書となりました。現在では法務局や役所によって厳重に封印の上保管されており、誰も閲覧することはできなくなっています。
明治5年の壬申戸籍の後に新たな様式の戸籍ができたのが、冒頭でお話しした明治19年式の戸籍で、私たちが入手できる最古の戸籍となっています。
その後、明治31年に様式が変更されます。この変更では、戸主の欄に「戸主となりたる原因・年月日」を記載する欄が設けられ、その戸籍がいつどんな理由で編成されたのかがわかりやすくなりました。
次に大正5年に、それぞれ個人の欄に父母の記載がされ、その父母との続柄(長男、二男など)も記載されるように変更されました。
昭和23年式では、3世代を同じ戸籍に記載することができなくなったことを受けて、夫婦と未婚の子を一つの戸籍に記載する方式に変わりました。
そして、平成6年式ではパソコンの普及によりコンピュータで戸籍を管理することに伴い、これまでの縦書きの戸籍から横書きのコンピュータ式の戸籍に変わりました。平成6年の改正をうけて、順次それぞれの役所ごとにコンピュータ化されましたので、実際にコンピュータ化された年はそれぞれ異なりますが、この平成6年式が現行の戸籍となっています。
さて、長くなりましたが、これが非常にざっくりですが戸籍のおおまかな歴史となります。細かい部分はもっとたくさんあるとは思いますが、なんとなくイメージをつかんでいただけたならうれしく思います。
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